菊地純子 NCCドイツ語圏教会関係委員会委員長
私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。
この卑しいはしために 目を留めてくださったからです。
新改訳聖書2017 ルカ1:46−48
聖書を読まれる方々の中で、「3月のこの季節にこの聖書箇所か?」と違和感を持たれる方も少なくないでしょう。ここはマリアの口に乗せられた有名な讃美の一部で、しかも、受難節を迎えた今ではなく、クリスマスの頃に美しい風景の一つとして目にする箇所だからです。
でも、このことばがマリアの口に乗せられるまでの経緯は、決してロマンティックな美しい話ではないことはご存知の通りです。一人の、当時の「普通」の若い女性が結婚を控えて、その準備の時に身の覚えのない妊娠を天使から告げられる。真相はどこにあったとしても、それは当時には後ろ指さされるような事態でした。マタイによる福音書ではマリアの婚約者ヨセフが大きな困難に直面したと書かれています。
自分の妊娠を告げた天使に向かってマリアが「何故私が!」と厳しい顔を見せるシモーネ・マルティーニの絵が示すように、「どうしてそのようなことがありえるでしょうか。」と言ったとルカは書いています。結婚前の喜びに満たされていた女性は一気に奈落の底へと突き落とされました。
そのマリアの口からこの讃美が出てきたのです。何がその間に起こったというのでしょうか。人生の最大の危機、若い女性に初めて訪れた苦難の時。その女性が神への信頼を土台に、神を称えているのです。聖書には相変わらず、事の詳細は書かれていません。そこに書かれているのは神に背中を押されて、深い喜びの場所へと押し出されていった一人の弱い人間の姿です。自分の人生に神が関わってくださっていることを知り、苦難が起こったとしても、その方を褒め称えずにはいられないのです。
受難節は、苦難に陥っているときには特に惠みの時です。イエスが苦難への歩みをされた日々に6週間に亘って焦点を当てる時だからです。